神奈川県防災消防協同組合

37年間の歩み


〜同業会から協同組合への37年間の歩み〜

元理事長  大野 八州男
 永年の懸案であった同業会の法人化が山村理事長の指揮のもとに平成10年10月1日に設立されたことは誠にめでたく、お祝いを申し上げますと共に心より敬意を表します。「水を飲む時、その井戸を掘った人の労に感謝しなければならない」という周恩来の言葉を思い起しつつ、同業会の歴史、37年間の歩みを集約し要点のみを虚心懐に書いてみました。

昭和23年8月1日消防法が施行され、消防用設備が任意設置から義務設置になったことにより、消火器や消防用品等のビジネスが成り立つと業者がポツポツと増え始めました。何しろ新しい法律だったため、改正や通達が頻繁にでましたが業者間の横の連絡が取れませんでした。そこで県の防災消防課の指導により、業者の会を結成すべく戦前からポンプ関係で県の講師などを務めた事がある蒲原商会の蒲原磐夫社長が中心になり、双信の降旗氏、松栄の真野氏、加藤機器の加藤氏、大東の一寸木氏、渡辺の藤沢氏等諸先輩が度々の会合を開き県下26社の加入を得、基金1社5,000円、年会費6,000円で昭和37年8月30日、横浜西口の相鉄文化会館2階精養軒において、神奈川県消防機器同業会が、親睦と業界の発展を目的に発会しました。

昭和38年、消防法の第19条(現在は削除)が改正され、消防用設備等の国家検定品以外の流通を禁じられた事に伴い、業者も急激に増え同業会の会合も度重なり、会の財政圧迫で蒲原理事長の個人負担も大きく、赤字続きであった。会の運営資金を捻出するために、各社ごとに使用していた消火器詰め替えラベル(当時は荷札型)を同業会で発行することにしたが、ラベルに権威を持たせるために同業会マークと県章を入れたらということになりました。絵心のあった消火器の大関という方が、図案化を図りそれを双信の降旗氏が知人であった当事の津田副知事にお願いした結果、県章の使用が正式に許可されました。そのラベルの発行が後々まで資金源となり、会の台所を賄ってきたものです。昭和41年に消防設備士制度ができ、各社の社長たちは老骨に鞭打ち設備士の資格を取得するために大変でした。消防設備士会なるものが個人会員で組織され、後の安全協会へと変わっていきました。

昭和42年蒲原理事長が病に倒れ、副理事長であった松栄の真野氏が残期を引き継がれ、昭和43年加藤機器の加藤氏が3代目の理事長に就任、同業会の礎を作るために張り切って、会員章・作業帽・胸章・腕章などを造り、同業会会員のアピールに努めました。また、加藤機器の池田氏と双信の大野が担当して、第1回目の消防設備早見表なるものを県防災消防課の監修を得て発刊。行政機関、建設、設計、設備業者などから好評を得て、会財政の一助としました。昭和50年渡辺氏の藤沢氏が理事長を引き継がれた頃、消防法第17条が改正になり、消防用設備点検資格者制度が発足し、各都道府県に安全協会の設立が国の指導の元に生まれ、昭和52年に消防設備士会が発展的に解散の形をとり、財団法人神奈川県消防設備安全協会が設立されました。機器部会として同業会全社が加入しました。同時に同業会の事務局も協会と同居、協会への事務委託が始まりました。

昭和54年5月、藤沢理事長が海外で客死という不測の事態が発生し、当時執行部は副理事長大野1名という変則的状況で、私は一人で何役もこなす破目となりました。会員も105社に膨れ上がっており、理事は25名もいるので理事全員で会を運営することが望ましいと、総務委員会、事業委員会、広報委員会を昭和57年に発足させ、翌58年に同業会情報誌として会報を発行、県中小企業団体連合会に加入、県下の他の業界との交流も始まりました。その頃、各支部に協同組合や消火器普及会などが生まれ、会費収入が激減し会の財政が逼迫しました。昭和60年第6代目黒澤理事長が就任、同業会活性化、財政建て直しなどに苦労されました。その当事の関会計、畑庶務理事のご苦労は並大抵ではありませんでした。4期8年間のご苦労の甲斐が実り財政健全化が成り、平成4年、河本7代目理事長が生まれ、次世代の育成に意を注ぎ26名の青年部会を新設、昭和工芸の岡崎氏が初代青年部委員長に就任しました。第8代目理事長はヤマトの岩村氏が務め、平成9年に第9代理事長として優光社の山村氏が就任し、平成10年9月30日、神奈川県消防機器同業会を発展的に解散し、平成10年10月1日神奈川県防災消防協同組合に移行、113社が参加設立、初代理事長に山村氏が就任しました。